樹林氣功の念い(2)

「私たち人間は、いつからか自身を、この地球の中心的存在と思い込んでしまっているのではないでしょうか。樹木も、森も、水も、土も全ては人間の為に在るもの、人間の都合の良い様に管理し、作り替えていける、特に経済的に価値あるもの、役立つもの、そうでないものは無くて良いもの、そんな風に周りの環境、自然を見ているのが現代社会ではないでしょうか。環境運動にしても、どこかに人間中心的発想があるように思います。樹林氣功では、あくまでも私も、樹木さんも、土の下に棲む虫さんや微生物さんたちも、ひとつに連なりあっているかけがえのないいのちたち、というまなざしを大切にします。その念いを頭ではなく、なまみで体得しましょう。知識ではなく、智恵としましょうという願いがあります。」

この樹遷さんの言葉に出会った当時、私は村おこしに関わっていて、リゾート開発ではない、本来の地域起こしとは何かと考えていました。この樹林氣功の念いとの出会いは、私自身の生き方に大きく力を与えてくれた様に思います。

樹林氣功には、『みどりといやし』という言葉があります。

森に入らせて頂き、氣功をしているといつも感じる事なのですが、こころも体も自然と融け合ってひとつとなり、癒されたと細胞が語ってくれます。

何故癒されるのか、体験した一人一人に物語はあるのでしょうが、多分、小さな自我、自分は自分というとらわれで固まってしまっているものが多様ないのちの風景に身を浸し、双方向の交流の中で、ふっとゆるみ、その時、いのちの全体性『いのちひとつらなり』にこころの琴線が触れるからでしょう。いわば内なる自然と出会えるからかな、と私自身、自らの体験からそう感じています。

癒しとは、いのちが全体性を回復したときに自ずと湧き出てくるもの。それをみどりに象徴される『杜』が教えてくれるのです。

樹遷さんは、またかくも語っています。

「この時代、多くの関係が一方通行になってしまっている。一例を挙げれば、教育の場では、教師が生徒に一方的に教えるだけの関係が、医療の現場では、医師が患者に一方的に治療を与えがち、福祉の場面でも、介護者が一方的に老人、障害を持つ方々、弱者を介護するだけに陥りがち。こうした一方通行の関係がお互いを窒息させ、いのちの差別化、自覚せぬうちに社会の病を引き起こしている。いのちの本来の風景は双方向。教育、医療、福祉の現場こそ、育む者が育まれ、癒す者が癒され、老いを見守る者が、老いの智恵を与えられる。

自らを医師や、教師や介護士という役割演技に引き籠もらせるのではなく、開かれた双方向性を取り戻す中で、自ずから互いが育ちあい、癒しあい、すこやかになっていく。そのすこやかさを、樹林氣功を通して少しづつでも回復して頂けたらと念じています。」

 

こうした念いに出会い、共感して以来三十年、多くの仲間たちと杜に入らせて頂き、「みどりといやし」を体験させてもらってきました。樹林氣功のひとときの後は、いつも何を見ても、誰と出会っても、見るもの全てが愛おしいという感覚を持つことができます。現代社会に日常身を浸していると、やはり自分が、あの人はと、正邪、善悪、好き嫌いでものを見たり、人を判断して、優劣、差別、偏見、非難してしまいがちです。それがこころを曇らせ、心身を不健全にしていまいがちです。

杜に入り、いろいろないのちが豊かに共存している風景に出会うことで、ありのままでいいのだ、今それでよし、と自分自身を認めることができ、更には周りの諸々も受け入れ、謙虚なこころになることができます。それは多分、杜が私たちに、細胞を通して気づかせてくれたものだと思います。 (続く)

樹伯 記

*植物学的森林には「森」の字を、人と森が時の流れの中で織り成してきたみどりの風景を「杜」という字で表させて頂いています。

 

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