令和元年気らん塾参加者の声

今回は本当に言葉にならない学びを一杯いただいた気分です。夜の囲炉裏談義でのお話、いつか死ぬのではなく、人はいつでも死ぬのだということ。死というものが日常から見えなくなることで、死に対し鈍感になっているこの社会、結果生きることについてもしまりのないだらだらとした日々を生きてしまっているなと、反省しきり。明日死んでも良しといえる今を生きるぞと強く思いました。人生は長さではなく、深さ、かつてのお侍さんたちが、今日死んでもいいようにと(刀を持つということはそうだと思うのですが)、覚悟を生きていた時代の精神を少し学びたいなと思いました。

直感についての質問での、人のために生きていたら働くものというお話も心に響きました。本屋などに並んでいるこの手の本、ほぼすべてが自分に益があるように直感をみがこうみたいなのが多いように思うのですが、肚に落ちるものがありました。自己中心でなく、公の精神がこれからの時代本当に大切な生き方になるんだなと思いました。

今回の站椿功ではふとした瞬間に自分が立っているのでなく、ただ空の体があり、それが天と地を繋いでいるみたいな感覚になることがあった。場所が泰澄さんの若き日に修行された山ということもあり、泰澄さんが衆生を救うために己を捨てて修行されていたその心を思いながら立っていたということもあるのか、自分が立つという感覚が今までより薄く、その分、立つことが楽になったような気がした。

公の心を生きるということを今回はいろんな角度から樹遷さんは言霊として伝えてくれたように思うのですが、どんなに気を練っても我意識が強くなるのは気の道ではなく、公の心、いわば、自分のいのちを人々(諸々も含め)のためにお使いくださいという想いが深まるのが気の道!?站椿功をしていてそんな気持ちになったのが不思議でした。

この塾では、枝葉を教えるのではなく、通底しているものを伝えたいのだ、それを生身で感じ取ってほしいと塾の始まりにおっしゃられましたが、初めはこの年になって無理だろうみたいな気持ちが心の隅にあったのですが、一泊するごとに、今からでも大切なこと、生身化して次世代に伝えたい、江戸時代以降本当に絶えようとしている気の世界を自分が生きている間少しでも人々に伝え、この味わいを通して皆の人生が豊かになってくれたら。そんな願いを持てるようになりました。

肚が充実して下半身が安定し、そして心がぶれずに暖かいまなざしで周りを見渡せる、站椿功の深さに触れれたのが一番の収穫でした。頭での理解でなく、やはり体で実感することでしか身につかないのだなと改めて思いました。

站椿功を日々立ちながらもこれになんの意味があるのか、正直迷いがあったのですが(遠い先に何かはあるとは思いつつも、とっかかりが見つけれてなかったように思います)、少し先が見えたように思え、これから立つことの楽しさが出てきました。

日々の研鑽、当たり前のことなのですが、次回までもっともっと深め、皆と真剣な道場で学びあいたいです。

 

若者達が真摯なまなざしで学んでいたことも心に残りました。彼らが学び続けれるようにどんな典座ができるだろうか。同じ道を歩もうとする仲間が増えることはこの上ない喜びです。このような仲間と出会える機会を頂いたことにただ感謝、想いを共にする仲間というのはなかなか出会えないものです。

もう一つ、器量と度量のお話は耳に痛く又、一生かけて成長したいという想いを深くさせていただきました。いくつになっても、学び、いい意味での向上心を持ち、死ぬその時まで、いのちを全開して、精進していこう、老いていくのは体で、精神はいつまでも、若々しく、チャレンジ―し続けれるのだということを改めて思い起こすことができました。気働きがないとこの半年お叱りを受け続けてきましたが、なるほどと器量をもっともっと磨いていかなくてはと肚にこたえました。

50代になってから知らずのうちに人生こんなものかなと、自分で制限をつけていたように思います。その蓋がとれ、若き日、あこがれを生きていた自分を思い出し、死ぬまでその心を生きるのが人なんだという想いを深く持つことができました。これも樹遷さんの言霊とそして、越智山という地の気が拓いてくれたのかなと感謝の気持ちでいっぱいです。

老いそして死に向かう年になってきた中で、人生の最後まで修練することと、いのちを燃やし周りの役に立つという生き方があるということを見せていただいたことが本当にありがたく、そして日々その道を歩んでいきたいと心に思うことができた3日間でした。

のど元過ぎればにならず、生身化して成長していきたいです。貴重な気づきと機会を頂いたことに重ね感謝します。人生の財産を得た気持ちです。これからもよろしくお願いします。